新しいシステムやハードを導入した後で大きな欠陥やエラーが発生したとき「誰の責任なんだ」「正しい判断が出来なかったのか」「途中で止めることは出来なかったのか」という話になります。
意思決定までや運営のプロセスで関わる人が多くなればなるほどこれが曖昧になって「自分は決まったことを事務処理しただけ」と思うことがありました。
【武器になる哲学】を読んでスタンレーミルグラムの「アイヒマン実験」をはじめて知りました。
「自らが権限を有し、自分の意思で手を下している感覚」の強度は、非人道的な行動への関わりにおいて決定的な影響を与え、逆に責任転嫁を難しくすれば、服従率が下がることを意味します。
悪事をなす主体者の責任が曖昧な状態になればなるほど、人は他者に責任を転嫁し、自制心や良心の働きは弱くなることが示唆されます。
また、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人に対する大虐殺)は、官僚制度の特徴である「過度な分業体制」によってこそ可能だったという分析を示しています。銃や毒ガスを用いて実際に自分の手で罪もない人々を虫のように殺していたのはナチスの指導者たちではなく、私たちと同じような一般市民だったのです。このオペレーションの構築に主導的役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、良心の呵責に苛まれることがないよう、できる限り責任が曖昧な分断化されたオペレーションを構築することを心がけた、と述懐しています。逆に権威へのちょっとした反対意見、良心や自制心を後押ししてくれるちょっとしたアシストさえあれば、人は自らの人間性に基づいた判断をすることができる、ということです。
勇気を出して「これはおかしいのではないか、間違っているのではないか」と声をあげることができるのか、自問自答しなければと思いました。